秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

原始の自分を救うために、何者かにならなければならない

最近、高校の同期の名前を目にすることが増えた。受賞や業績、何らかの責任ある立場、就職、輝かしい栄光の一歩目と言えば楽観的か。ともかく、それは喜ばしいことであるし、僕らが共有していた過去において何者でもなかったティーンエイジャーが今となっては何らかの形を得ていくのを感じている。アモルファス不定形であった人間としての抽象的で輪郭の曖昧なエネルギーの塊が、徐々にその熱量を落ち着かせつつ、次第に一定の位置を得ようとしていく、そんなソフトランディングの段階にあるのだろう。これからまさにテイク・オフするのだという意気込みであれ、その空路は定まりつつある。

大学の人々であっても勿論同様ではあるが、中高の人間については、その変化がよりわかりやすい分、どこか底冷えするような感覚を抱いてしまう。それは置いていかれてしまうのではないかという焦燥であり、とっくに失われたかつての日々が本当にもう失われたのだということを再確認させられる寂しさ、自分が仮に過去に拘泥したとしてもすでに不可逆的な変化が起こり始めてしまったのだから取り返しはつかないのであるという絶望、自分は彼らが彼らの道で遂げるような発展を、それとは違う形であれ自分の人生においても得られるのだろうかという不安、そして自分が将来夢に破れたり現実の前で疲れ果ててただ妥協的な毎日を消費し死を待ち続けるだけのくだらない人間に成り果て、誰とも向き合えなくなってしまわないだろうかという恐怖、それらの混ざったような感覚がまとわりついている。

 

あの高校を卒業してから5年目になるが、ようやくかつての自分から一定の距離をおいて見つめ直し、それを言語化できるようになった気がする。

僕は家庭環境においてやや複雑な側面を持っており、小学校も同様であったから、中高というのは逃避先だった。第一義的にそれはシェルターであった。話の通じる人間が世界にこれだけ存在しているのだということ自体が救いだった。しかし、自分は他人というものがどうしようもなく怖かったものだから、自分のごく素朴な側面を外部に提示するということはほとんど不可能であったのだと思う。それは多分に防衛機制的であり、家庭や小学校において形成された「孤高で反逆的な人格」の側面があった。あえて言えば解離的な側面が少しばかりはあったのかもしれない。少なくとも、より幼い頃の自分は、全てに対して万全の信頼を寄せるような純粋さがあったと思う。そしてその無警戒な部分は常に保持されていたけれども、自分の最も素朴な部分を提示しては負のフィードバックを受け続けたことでむしろ反動的に他者を寄せつけようとしないバリアができあがっていた。それはもう自我を獲得した7歳頃には出来上がっていたと思うし、親という最大の外部存在、あるいは敵との闘いを繰り返す中で洗練されていった感覚がある。

中高においてもやはり同様の「人格」があったと思うし、それらは口論や交渉を好み、扇動や折衝を通じて他者との関わりを得て、露悪的あるいは道化的であるよう努めることで、むしろ内面の部分が空疎である「ということにしている」感覚があった。わかりやすく「本当の自分」が存在しているわけでは全くなかったが、しかし人格のレイヤーとして中高の頃には終ぞ表に出ることのなかった部分が確実に存在していたと思う。

同様の状態のままに大学に進学し、そこは程々に過ごしやすく程々に地獄であった。入学当初は、中高の人格のレイヤーの表面にさらなるコーティングを意識的に行おうと努めていたが、それはすぐに破綻し、破綻してもなお強く自己を制御しようと試みるうちに感染症の影響で他者との交流のほとんどが途絶した。やはり最初の一年間で相当無理をしていたのだろうけれど、2年生以降はひたすらにメンタルの不調に悩まされていたし、かつて外側に向けていた攻撃性の方向が完全に逆転して自らを攻め続ける内面世界が確立されていた。

やはり、家庭や小学校での日々を通じて形成され、中高の日々を支えていた人格/自己という装置はそれだけで生きていけるほど長続きするものではなかったし、そしてそれを無くしてどう生きていけばいいのかという指針など全くなかった。自分を責め続けることで何かが変わるかもしれない、という望みが救いであった部分もあるのだと思う。ひたすらにそのような日々を過ごしていた。その日々を繰り返す中では自死を選択肢として常に検討していたが踏ん切りがつくということもなかった。

今現在では、ゆっくりと自己理解を深めながら、他者と細々とした交流のみを持って、精神的隠居の状態にある。解離というわけでもないので、自分の人格におけるいくつかの排他的な要素が、どうにか落ち着いて1つのあり方に着地されないものかと試行錯誤している。やはり、根本から自閉的な部分はあるのだろうし、コミュニケーションにおける他者への不信が根底にあるのは疑いようのないことであるから、自分にとって数少ない他者との関わりがある側面においてはリハビリテーションとなっているのだろう。

何者かになりたいという願望は、自分の場合には誤魔化し続けてきた内面世界の破綻を発展的に解消したいという切なる願いであったのかもしれない。だとすれば、自分が本当の意味で、客観的に「何者かになる」のは、遠い未来のこととなりうるだろう。そのときまでに、自分の周りの人たちはいち早く先へと進み、背中しか見えなくなっているのだろうか。他者への関心が薄い割に、自分の矮小さを思い知らされるときだけ都合よく尺度としての他人に目を向けてしまうのは、社会的動物たる人間としての自分に内在する愚かさであるよなあと痛感する。

かつて中高の頃に願っていた自己実現の欲求とは、もっと昔の小さな自分を救ってあげたいということでもある。露悪的かつ道化的なレイヤーの下に眠る、おそらく遠い昔には全面に出てきていたであろう朴訥な自分の原始の部分があって、それがほとんど死んでしまっているのは世界がクソだからであるわけだが、クソに適応するためにクソまみれになってしまったから余計にコアの部分は奥の方へと埋もれてしまったような感覚があり、せめてもの手向けとして、当時の自分が受け続けていた苦痛は未来において大成し自由に活躍するための動力になったのだ、決して無駄死にではなかったのだということを、明らかにしたいのかもしれない。ともかく、ここまで蓄積され続けてきた他者への不信や憎悪とか、下らない社会への不格好な適応とか、その裏で殺されてきた自分の一側面とか、すべてを大団円で終わらせるためにまだまだ終わるわけにはいかない。

どこまでも自分のために、自分が報われるために藻掻いてみたいと思う。他人の遠ざかる背中を見て絶望しても歩み続けるしかないし、そんなものはそもそも何度だって感じてきた。苛烈に努力しても第一志望の中学に受からず駅のホームから身投げするか考え詰めたとき、クソみたいな家庭から逃げるために可能性を潰して進学先を選んだときも、どれだけやってもまともなデータが得られず誰からも馬鹿にされていたときも、止まらずにただひたすらやり続けてきた。

そして最近ようやく自分は生きていいのだ、呼吸していていいのだと、生きていてもいいのかもしれないという実感を得ている。それは、自分のような人間は死ぬべきであるという長年つきまとってきた強迫観念からの部分的な解放である。その強迫観念こそが努力の原動力だったことを考えると今後の失速は免れないのだが、過去の自分を救うためにもまだまだ終わるわけにはいかない。

中学生のとき、急に涙が止まらなくなった日があった。家で夕食を食べ終わったあと、急に感情の爆発が起こって、自分は小学5年の頃にひたすら当時の担任から虐げ続けられていたのだが、そのとき初めて過去のことを親に告げてみたところ、なぜ当時言わなかったのかと叱責されてしまった。それはあなた達への信頼が全くないからだと返すと、余計に激昂させてしまい、ああやはりこの人たちはどうしようもないなと、今度は冷え切った内心の中でまた一つ絶望が増えたような感覚があった。

そもそも、最初に原始の自分を追い詰めて殺したのはあなた方であるということを、大学に入ってから親に告げることができた。忘れもしない日であった。親からされたことをすべて思い出し、極力感情を殺しながら淡々と突きつけ続けていたら、数時間が経った頃には親が号泣していた。それは反省ではなく親という自己像の崩壊であり、すぐに責任転嫁が始まってしまった。絶望の債務整理をしても新しい絶望が降ってくるだけだった。家を出たことで客観視できるようになったのは自分だけだった。向こうは全く自己像を打破することなく、そこに拘泥すらしていた。

小学校のクソみたいな教師のところに押しかけてすべてを精算できたらどれほど救われるんだろうと夢想することがある。しかし、親相手のケースを考えればこれもきっと無駄足なんだと思う。

救われるためには過去の精算ではなく、未来へと向かう圧倒的な質量の努力と結果が必要だ。前へ先へと身を乗り出して没頭しなければならない。死ぬほど馬鹿にしてくれた、否定してくれた親や教師、クソガキ、見る目のない馬鹿共に中指を立て唾を吐きかけながら、心の奥底に眠る死にかけの自分に救いの手を差し伸べてやらなければならない。君が耐え忍んでいた日々は必ず報われるのだと残りの人生で証明しなければならない。