春の終わりに
忘れたわけじゃない。中高生のとき抱いていた屈辱的な無力感を。大学生のとき思い知った自身の無能、浴びせられた容赦ない目線、敵対心、自身への懐疑を。箱庭から出てもそこはだだっ広い荒野で、芽も出ない不毛な努力を続けて毎日徒労に苦しんでいた。
出したかった、いや出さなければ全員殺すと息巻いていた渾身の論文も中々出せていない。同世代が姉妹誌から論文を出したなんて話を聞いた。米国PhDに進むという話も聞いた。自分はしょうもないところでただ毎日限界医療をやっている。ひたすらに怒られ叱られ窘められている。誰も焦ってすらいない。焦燥感に駆り立てられるように努力に没頭していた大学時代から打って変わって、牧歌的陽キャたちがメインストリームな社会。いや、社会はずっとそうだ。僕が社会から逃避することを許されなくなっただけだ。
他人になんか興味ないんだよ。人間なんか大して面白くないんだよクソ。せめて面白い奴らとだけ関わっていたいんだ、大切な人とだけ向き合っていたいんだ。単に同じ組織にいるとか近い組織にいるとかそんなんでいちいち有象無象に割いてやる関心も時間も金もない。そういうスタンスは社会では受け入れられづらいらしい。
クソの無能よりはちょっとばかしマシな能力と、なけなしの学会発表や論文業績、まあ、「年次の割には」というやつ、若さゆえのボーナスステージ、穴モテクソバカ港区女子みたいなものだ。そういう恩赦により3年目以降の居場所はあるらしい。しかしあと2年以内に自分は最低限の武器を得られるだろうか。そして、ここからの10年で、何者かになるための武器を得られるだろうか。
何者かになるなんて漠然とした命題に付き合うのは馬鹿馬鹿しいよな。それでも、じゃあ、ただの町医者になっていいのかと言われたらずっとくすぶって不完全燃焼なんだよ。誰でもできる人生だろこんなん。今、自分が、ここにいたのだという、存在証明をしなくていいのか。青臭い中二病が寛解したって精神年齢が追いつかなきゃ何の意味もないだろ。
無難にやったって面白くない。逸脱を躊躇してはいけない。尖れよ、尖るしかないだろ。尖らなくなったって凸凹まみれの欠陥人間なんだから綺麗な球体みたいな連中には一生勝てないんだよ。せめて誰かにはぶっ刺さる鋭利な人間であるべきだ。
社会は苦しい。広い。虚しい。そんな中でも人間は意外と優しいし普通に冷たい。現実は無味乾燥としたおもんない毎日の繰り返しだ。自分は何がしたいんだ、何になりたいんだ。2年の研修の間にも少しくらい知的生産をやれよな。創造的であれよな。マニュアルの完璧度合いで競うだけのクソみたいな毎日で何が楽しいんだ。何が自分なんだ。誰でも代替可能な技能を再現するだけのブルシットな技能職で一生終わっていいわけないだろ!!!クソがよ!!!
目にもの見せてやる。昔バカにしてきた人間も。尖りを消費するだけ消費して向き合ってくれなかった人間も。丸くなったらつまらなくなったと一蹴して興味も持たなくなった人間も。怖がって敬遠するのみならずいちいち妨害してくる人間も。全員さっさと死ねよクソフェイク。一生眼中に入れずにやってやる。お前らも躓くんだよ。摩耗するんだよ。そのうえでどこまで尖りを隠し持っていざというときさっと出せるかなんだよ。
やれるとこまでやっていく。現実に順応するんじゃない、現実を操作して自分の望みに近づけていくんだ。ここから10年くらい芽が出なくてもいいい、20年30年先に報われるという狂信的信仰を貫く。その可能性に賭ける。賭けるしかない。没頭するしかない。没頭が青春の本質なのだから一生春を終わらせたくない。