青春とは何だったのか未だに考えてしまう。それは刹那への没頭であると第一義的には考えているが、そうであるならばあの男子校での日々も青い春の出来事として一生懐古されるのだろうか。いや、そんなことはないのだ。当時の僕は、確実に、青春欠乏症に苦しんでいたし、その後味は未だに尾を引いている。
ヒロインの不在。当時の僕に、あるいは今の僕においても待望されていたのは救世主としてのヒロイン的存在である。ラブロマンスイデオロギーに染められていたと言えばその程度かもしれないが、それでも、ヒロインが存在しないという状況は自分にとって大きな苦痛を伴っていた。いや、あえて言語化するならば、自分が家庭において実感することができなかった家族愛、あるいは母性/父性的なものを受け取りたい、あるいはままごとのように真似てみたいという、「やり直したい」欲求があったと言えるかもしれない。
ホモソサエティだって捨てたもんじゃない。当時の僕は間違いなくそこで救われていたし、そこでしか得られない人間関係があり、そこでしか得られない成長があった。今の自分が行っている努力や対人交渉の方法論は全てあの中高で培われ、洗練されたものだったと確信している。あるいは知的操作の一つ一つを、あの6年間で磨き上げたからこそ、大学の6年でそれらを駆使して、一応研究なり課外活動なり、あるいは最近もらった内定なりに繋がっている。
しかし、中高から大学の初期の頃まで、自分の孤独や絶望は晴れることがなかった。そのことで思い詰めて死ぬことを真面目に検討していた学部2年の頃の自分を、冬の時期になると毎年思い出してしまう。だからこそ、あの頃に、「あなたがいない世界なんてつまらない」「彼女ができないなんていうくだらない理由で死ぬなら、私が付き合ってあげます」という電話をもらったことが、未だに忘れられない一筋の希望を実感した瞬間として克明に記憶されているのだろう(まだこのブログを読んでくれているだろうか、とっくに忘れられている気もするが)。あるいは、当時の自分を閉塞的な世界から夜の街へ連れ出して、いろいろな話をして、秋冬の寂れた明け方の景色を眺めながら帰宅するところまで寄り添ってくれていた先輩との日々を忘れることもない。居ていい場所があるはずだということを、伝え方を変えながら繰り返し説き聞かせてくれていた根気強さは、彼女が「先輩」としての役割を通じて自己実現する一助にもなっていただろうか。あえてここに書くほどでもない人たちを含めても、自分は本質的には女性の存在に大きく救済されてきたところがあったように思う。
それ以降に深く関わった女性たちのことは、未だ総括する段階にはないと思っており、今後整理していきたい。ただ、自分にとって原初の女性体験が救済する/されるの体験であったことが、その後の言動に大きく影響している。救われる側から救う側にならなければならない/なりたいという救済願望のようなものを次第に感じるようになった。それは、所謂毒親を抱えた人がそこから物理的あるいは精神的に独立できるようサポートすることであり、難病を抱えた人が知識を深め治療に向き合う上での寄り添いであったり、就活などのソーシャルなイベントにおける相互扶助(実際は往々にして僕の負担に偏ってはいるのだが)であったり、精神疾患を抱えているような人を精神科やカウンセリングまで繋いだり、自己否定感情を抱えた人間が少しでもその自責を緩和できるように情緒面にアプローチしたり、かつての自分が自発的に決して行わなかったであろう偽善に取り組んでいた。それらは常に報われるものではなかった、というのも、交際関係であれば裏切られることもあった。客観的に見れば確実にこちらが正しいことを提案していても強引に拒絶されることもあった。対話というものが抱える限界についてこれほど考えさせられる数年を過ごしたことはなかった。しかし、その上で、語り続けることや関わり続けること以外に他者というものを理解し、互いの幸福のために何かを解決する手段は存在しないのだということを改めて実感するのだ。
救済されたからには、あるいはいつまでも憧れた人から救済をされるばかりで対等な目線に立つことができないというコンプレックスに苛まれるくらいなら、自分自身が他者に対峙しなければならないし、自他のボーダーラインを踏み越えなければならない。それが侵襲となるか、対話的アプローチとなるかを決定するのは自分と相手の一人称/二人称単数の間主観的関係性ただそれのみである。他の誰も関係ない、閉鎖空間のような内面世界で、ひたすらに対話をし続けるしかない。それが現実世界の閉鎖空間でなくとも、TwitterのDMでもdirectでもLINEでもメールでもSMSでもなんでも良いのだが。
自分がそうして関わってきた女性に共通するのは、純粋さが悪く作用してしまい、社会に多く存在している悪意によって疲弊してしまった人たちであるということだ。有害な男らしさに対置されうる概念としての有害な女らしさというのは確実に存在すると思っている。女性のソサエティに馴染めずに排斥され続けてきた層というのは確実に存在している。あるいは、父親、中高大のホモソーシャルサイドの男性、元交際相手からの悪意による疲弊というのも勿論あるだろう(この部分における男子校的ホモソサエティ出身者の有害性に関しては自分自身がある程度自覚的に目を逸らしている部分ではあり、というのも中高の自分を擬似的に救済していたものがそういった有害性を孕む集団、社交であることは否定の仕様がないので、それは育て親を背中から撃つような行為に等しいのである)。ともかく、良くも悪くも極めて純朴であるが故に、女性コミュニティや男性からのアグレッションによりとことん疲弊している人たちという印象が強い。そのような「周縁」(などという言葉を持ち出すあたり自分もしょうもない衒学仕草が抜けきっておらず思春期のターミネーションが終わりきっていないことを恥じる他ないのだが)に追いやられた女性たちを比較的多く目にして、自分なりにある程度深く関わったのかな、と思っている。
救済というものは報われないのだ。貸しを作ったところで返してはもらえないのだ。そんなことは大前提で、そもそも相手のためになることをいくら重ねてもその構造を相手が認識するかといえば全くそんなことにはならない。その報われなさを受け入れることが、救済という自己満足的行為に耽る上での最低限の条件だと思っている。諦めと言ってもいい。それでも向き合い続けることこそが自分にとっての愛の実践であるとすら考えている。無論、そこまで愛を注ごうと思える人間の数というのは少ないし、愛にもキャパシティがあるので、それ以外の人間に対してある程度排他的になる必要はあるし、自分の露悪的な言動はそのために行われている節すらある。
思えばずいぶん露悪的なことばかり重ねてきた気もするが、それは大いなるものへの本能的な反発、思春期特有の自我の表出であるとともに、この手の自己防衛を行う上でも重要であった。何も期待するなというメッセージを発信しておくことは、自分が期待に応えられなかったときに余計な失望を招かなくて済むのだ。道化的な振る舞いによってコミュニティの義務から逃れようとしていたと言ってもいい。どこかズレた人間であるというのは、集団に馴染むことができない代わりに、余計なコストを引き受けることから免除されるのだ。
ただ、思わぬ副作用として、露悪的な振る舞いは純粋であることで傷ついてきた人たちにとっては意外な相性の良さがあるらしい。自分のように集団の中でやたら反発してみせたり、尖った側面を強調してみたり、露悪という形で模範から逸脱しながらも都合良くそこそこの人生を送っている(ように見える)人間というのは、己の優しさや純朴さにより傷ついてしまう人間からすると、「こんな適当でいいんだ」「こんな自由でいいんだ」「悪い人でいてもよかったんだ」という、新しい気づきのきっかけとなるのだろう。安易で陳腐な自己防衛が誰かの安らぎにつながるとは正直全く思っていなかったが、そういうことがあるのも人生というものかもしれない。
ヒロインの実在を踏まえてもなお自分は青春の渦中にはいないように思う。王道でまっすぐなアオハルを真顔でやれるほど健全に育つことはできなかった。しかし、救済される/するという関係性を通じて、自分が見失っていた他者との本質的な対話可能性というものを、時間をかけて自分なりに咀嚼することができたのだと実感している。それは刹那を消費する青春群像劇に明け暮れるよりよほど価値のある蓄積であると思っている。青春コンプレックスも、青春の猿真似ではなく、別の軸で自分なりにもがいたことで多少は解消できたのかもしれない。
こうした一連の行動は結局のところ自分が見失っていた母性的なもの、父性的なものへの執着に過ぎないのではないか、青春コンプレックスを脱した先がより原初の家庭への執着になっただけではないかという批判は確実に存在していると思う。ただ、実のところ、自分が本当にやりたかったことは、何者かになるという自己実現を個人to社会(セカイ)の文脈で成し遂げるといった大それたことではなく、もっと個人的なことで、それは壊れた家庭のrebootなのかもしれないということを最近は実感してしまう。これが丸くなるということなのだろうか。いや、というより、ずっと目を逸らし続けていた部分ではあったのだが、なんだかんだ自分は彼女を作って生殖をするというだけの婚活市場における価値がありそうだという打算的な目処がついたことで、家庭という構造を自分の手で再構築して、幼少の自分がどれだけ欲してもえられなかった家庭的幸福をそこに実現するということに可能性が生まれたからこそ、改めてより明瞭に自覚するに至ったと言えるだろう。ただ、これは結局本来は愛を手向けるべき配偶者や、自立した自我としての子供に対して、彼ら/彼女らに対する眼差しではなく、自分の古い過去に抱えたコンプレックスを解消するために他人の肉体や実在を消費していいのかという、極めてクリティカルな倫理的問題に直面してしまうし、実際最近の悩みというのは概ねこのあたりに収束しているのだが、未だに答えは見えない。見えないからこそ、刹那への没頭という青春の一イベントとしてではなく、より地味で地道な対話の蓄積によってその解を実践していくしかないのだが。書くは易しいが、するは難しい。
ただ、そう悪いものでもない。悩んで考えて行動し、フィードバックをかけ続けることこそ、真の幸福に漸近するための健全なサイクルである。ひたすらやっていくのみだろう。ボーイミーツガール(s)はあの日の拗らせ童貞クンを多少は変えてくれた、のかもしれない。