秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

現代日本のFラン像

0.Fランの定義

Fランとは、元々「ボーダーフリー」のF、つまり入学定員に対して受験者数がより少なく、出願すれば誰でも入れてしまうような大学を指して使われていた言葉だ。そして、そこから派生してそうした大学の学生を指す蔑称として、さらには広く一般に「程度の低い人」を指す言葉として使われている。例文を紹介しておこう。

ex1. いや、今回の試験はダメだったよ。僕もFランだからね。

ex2. 君のお姉さん、プール学院大学に進学したんだって? 有名なFラン大学じゃないか!

ex.3 渋谷でハロウィンの日にバカ騒ぎしてゴミを散らかすようなFランは、エイズにでもかかって死んでほしい。

ex.4 彼の最近のツイートはFランすぎる。

ex.5 あのFランマンコ、ほんと見るに堪えないわ。これだからFランは...。

また、対概念としてSランというものがある。こちらの普及はFランほどではないものの、どちらも普遍的に用いられる人物評価の尺度である。

ex1.彼、理3A判定なんだろ?Sランじゃないか。

ex.2 お前ほんとSランだよな。ーいやいや、君こそ。僕はFランチンコだから。

 

1.Fランとはどういう存在か~Fランを追及する~

筆者はFランの構成要件として「無知の無知、あるいは迎合」「恋愛至上主義」「遊び好き」があると考えている。

1-1 無知の無知、あるいは迎合

ソクラテス的な話になる―――といったとき、その意図するところを瞬時に察することができる人間は、Fランではない。そしてvice versa、とでもいったところか。このように、一定の知識を前提として美辞麗句や故事成語などを駆使して文章を書くという「駢儷文」的な文章もそれはそれで見苦しいところがあるが、しかしそれを見苦しいと思えるのも「元ネタ」がわかってこそである。

そして、Fランの特徴として「無知」を恥じないということがある。「知らなくても当たり前」「知ってる方がキモイ」...等の発言がFランのそれとしては代表的だ。無知であることを自覚せず、そのことを突き付けられると反抗し、己の無知に迎合するのだ。さらには、時に「知」そのものを馬鹿にすることがある。彼らは、自身の立脚する文明の礎が人類の過去そのものであるということに対して無自覚であり、当たり前のものとして享受するだけでそこに対して一切のリスペクトをもたない。論外だ。

こと学校の勉学においては露骨に彼らの反知性は発揮される。そもそもまともに勉強すればまず入ることにはならないだろう大学や高校にも学生、生徒がそれなりにいる時点で推して知るべしといったところである。結局、Fランは自己研鑽もせず、だからといって陰に努力する者を尊重することもなく、狭い世界観の中で生きていくのだろう。人間死ねば何も考えることなく悠久の時を過ごせるのだから、せめて80年くらいは頑張って頭を動かしてみてはいかがか。

 

1-2 恋愛至上主義

価値基準が恋愛という要素に偏りすぎている、ということである。例えば、現代日本では常識ある人々にとって「未成年同士の淫行」はタブーであるし、ある程度保守的な人なら婚前交渉自体が禁忌である。それにも関わらず、性交渉を中高生の間に行うことを当たり前と捉えているような「Fラン」ばかりが多く世にのさばる。また、彼らにとって恋愛とは彼氏/彼女を持っているという事実が重要なのであり、それは中年の婦人が宝石を誇示するのと同様の卑しい見栄にまみれた愚行である。その点では、表題の「恋愛至上主義」は不適切かもしれない。正しくは「恋愛ごっこ至上主義」である。おままごと的な稚拙さがそこにはある。結局、純文学にでも出てくるような熱烈なる愛も、執着も、或は純粋な恋慕も、実際には行われていないのだ。見栄と性欲ばかり満たしているのだからお笑いものだ。低俗なドラマなどのフィクションで語られるようなものをただ猿真似しているだけのFランが、常識的感覚を持ち全うに勉学に励んでいる善良な青少年を馬鹿にする資格はない。程度の低い共学の中高では「恋愛ごっこ」への参加の有無がそのまま「スクールカースト」なる序列の決定的なファクターなるらしい。そして趣味嗜好により人にレッテルを張り見下したり、勉学を好む少年少女を蔑んだりするというのだから、これは黒人やアジア人が直面しているのと同じ「根拠のない差別」である。

そして、セックスの回数や彼氏/彼女のいた期間といった「恋愛歴」を異様に気にする人種もいる。そういうFランはある意味で、恋愛による序列化の被害者なのかもしれない。いずれにしても、そのような序列しか築けない時点でサルの群れと同程度の文明しか持っていないことが分かる。

ニュースで犯罪者がアニメオタクであるとかそういった情報を披歴するのは、まさしくFラン的指向だ。いまだにテレビでニュースをウダウダと見ているのはよほどのFランばかりであろうからそれでテレビ局的には問題ないのかもしれないが、もしかすると今のテレビ局の人間がそもそもFランばかりの地獄絵図なのかもしれない。困った話だ。

1-3 遊び好き

これも大きな特徴である。例えば、渋谷新宿池袋といった副都心と呼ばれる街には山ほどFランがいる。知的水準が低いので大抵のFランは金がなく、故にそうした低俗な街に彼らは屯している。いわゆる「遊ぶ場所」に行ってみると、見た目からして無駄に着飾り、理由なく髪を染めて自身の体を傷つけるという理解不能な連中がバカ騒ぎしていることだろう。もしかするとタバコや酒に耽っているかもしれない。

また、学生のFランは遊ぶためにバイトをするということがあるらしい。笑止!苦学生が学費工面のためにバイトをする、これはなんとも健気でいいだろう。だが、そういうわけでもないのに、なぜ10代という頭と体が一番無理の利く時期に高々時給1000円弱を稼ぐため時間を無駄にできるのだろうか。そして、その金で塾に行くでもなく、本を買うでもなく、遊びに使うのだからますます意味がわからない。このような高校時代を過ごしている人間が勉強で落ちこぼれたり、そのくせ大学に行こうとするというのが全く持って許せないと筆者は個人的には思う。

Fランは遊び好きであることにある種の誇りを持っているようで、その誇示のため髪を染めたり、「服」という他者に見えやすい部分にやたら気を回したりすることでアピールに努めている。しかしこれも見苦しい。ピアスなどもはや自傷以外の何物でもない。或は、煙草を吸うのが「かっこいい」という知能のあまりに低い動機から、一生付きまとう薬物に手を出すことになるFランも多いようだ。無駄に着飾り、無駄に有害物質を頬張り、それで金がない金がないと言っているのだとしたら愚かにも程がある。もしこういう連中に生活保護が出ているのだとしたら、即刻支給を打ち切って寒空の下で野垂れ死んでほしいと思う。

 

2.我々はどうあるべきか~Sラン像を追究する~

以上みてきた「現代日本のFラン像」は、言うなれば今の若者が避けるべき将来の姿である。筆者もそのように心がけているつもりだ。すなわち、Sランでありたいと切に願い、自分なりに無知を自覚し、自助努力し、浪費を禁じ、遊びに現を抜かすことのないように毎日を過ごしている。以下、「どうあるべきか」という観点から、FランへのアンチテーゼとしてのSランについて語っていきたい。

・無知を恥じ謙虚であること

結局、人間は無知だ。程度の差はあれど、Fランに知っていることをSランが知らないということもあるかもしれないし、少なくともSランにだって知らないことなどいくらでも存在する。だからこそ、その己の無知を自覚し、深く恥じなければならない。自分より優れた知性を見つけ、その人に追随し、崇め、得られるものを得ないといけない。

・自分のやりたいようにやること

逆説的に思えるかもしれないが、Fランの肉欲や浪費の行動とは常に他者を意識している。「恋愛をしている自分を誇示したい」「御洒落な自分を見せつけたい」という、他者を前提とした行動なのだ。そうではなく、「自分は何をしたいのか」という観点が重要だ。おしゃれの例でいうのなら、Fランが流行のファッションばかり追いかけているのに対して、御洒落好きなSランは自分で服を調べ、「何が流行っているか」ではなく「何を自分が着たいか」ということのみ意識しているはずだ。

・知識を重んじること

「物事を知らないよりは知っている方がいい」という原則を叩きこもう。どのような知識であれ、それを知っているというだけでその人の世界観は変容する。知らないということはそれだけで貧しいことなのだ。前述のように、人間80年程度しか時間を与えられていない。常に知識に貪欲であれ、というのは人間の能力的にも厳しい。だからこそ、知識を得る機会があれば大切にするべきだし、間違っても知識のある人間を馬鹿にして遠ざけてはならない。そういう人間は必ず自分を利してくれる。

 

最後に、子供とは「F/Sの中間態」である。すでに筆者同様17歳にもなってしまえば、ある程度どちらに「配属」されるかということは伺い知れてしまう。だから、実は小中学時代の過ごし方というのがその人の人間性を決めるのだろう。類型論的に言えば、S,Fに分かれることになる(その意味で、このページはあまりに俗的な類型論のお話とすることもできる)。

ただし、今からでも遅くはない。10代も終われば、いよいよもって手遅れになってしまう。筆者も10代最後に滑り込む形で自身の研鑽に目下励んでいる。読者諸氏と共に頑張りたいものだ。