秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

恋愛観的備忘録

Twitter、あるいは日々の生活でちょくちょく触れていることをまとめてみる。統合。

そもそも自分は異性愛者なのか。正直なところ恋愛体験を人生で真にしたことが一度もない(2次元へのこの想いが該当するかは議論の余地がある)というのが僕の主観的自己批評であり、その点そもそも恋愛観の醸成が全くなされていないのではないか、つまりこのタイトルとは対照的に僕には論じる恋愛観そのものがそもそも存在しないのではないかという安易なニヒリズムを提唱することもできる。ただし、だからこそ成り立つ問だ。僕はロリータコンプレックスなのか。シスターコンプレックスなのか。あるいはペドフィリアレズビアン、ゲイ、バイ、その他もろもろより取り見取り。とはいえ択一式の問題である。男子校の監獄、あるいは楽園に閉じ込められた僕は実は原罪を背負っておらずそのため恋愛などという下賤の娯楽には興じないのだ、という無性愛なのかもしれない。

自分の意見として「性欲と恋愛は別」ということがある。この2つを同一視するなら、男子は皆AV女優に恋することになる。では、包含関係ではないのか。つまり、恋愛感情というのは性欲の一つの在り方なのではないかということだ。その仮定の下で議論してみよう。そのとき、恋愛感情ではない性欲というものがあることになるが、まずこれを考えてみたい。この性欲を「単純性欲」と名付ける。単純性欲は、例えば前述のように男がav女優やエロ漫画でオナニーをする原動力のようなものである。例えば水槽に水をためるがごとく、一定の量が溜まると流れ出てしまう。年を取れば供給量が下がるというわけだ。その原理は極めて単純に思える。最近の僕のように、ある種機械的に射精しているという人はこの話に大いに共感してくれるのではないか。

そして、それに対して恋愛感情は複合的だ。僕は実体験を持たないので口伝やフィクションに頼るしかないのだが、それらによると文章で書くのも顔を赤らめてしまうような感情の鬱積を心中に抱えてしまうようだ。第三者からすれば冷ややかに見られてしまうような、その実当人からすると羞恥のような感情やもがきたくなるような衝動を覚えてしまうのだろう。高齢者での恋愛が昨今の高齢化で注目されているが、それは恋愛感情が先述のような単純性欲とは違う、つまりポンプと水槽の関係ではないということなのだ。では、単純性欲における変数が年齢や体調、男性ホルモン/女性ホルモンという複雑ながら物質的なものだとすれば恋愛感情におけるそれは何なのか。それこそが恋愛対象である、ということが真っ先に思い浮かぶ。しかし、ここで「にわとりと卵」のような問題、つまり恋愛対象が最初に決まるときどのように恋愛感情は作用するのかという問題が生じる。一目ぼれ、というのが昔から恋愛の冒頭に使われる「キッカケ」だが、それでは恋愛対象と恋愛感情の関係は「偶発的邂逅」に端を発するのか?(邂逅にはもともと偶発の意が含まれているが、強調のため)  また、恋愛対象というものは移ろう。そうでなければ、男も女も互いに惚れあった恋愛に別れなどないし、実らない恋愛の行く末はメンヘラ的バッドエンドなのだ。つまり、恋愛対象の始まりと終わり、そのときの恋愛感情というものは未知に満ち満ちているといえよう。

恋愛対象の問題、つまり人は何を愛するのか、これは個人により違う。そして感情機構も人により多種多様である。故に一般解の存在しない思考だが、僕自身について考えてみよう。2次元という世界の少女たちに対して純潔信仰を抱いていると自負して止まない童貞だが、3次元の少女たちに単純性欲なら抱くのだ。だから「セフレ」は欲しいと常々思うのだ。ただ、渋谷で暴れる女を見ていて、女同士で悪口を肴に井戸端会議しているのを盗み聞いていて、恋愛対象にこういう女は嫌だなあと。そして他人の精液を注がれた肉体に自分の愛は注げない。だからこそ「恋愛感情」を始める時にはせめてその対象は処女で優しい心も体も女の子な少女がいいなあと思っている。ということは自分は一応異性愛者を自称している身も心も男のキモオタクなのかもしれない。