秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

性別についての概観、"拗らせ"の果ての観念

僕は拗らせ童貞である。そして、その上で述べたい。僕は心から男女平等的である。

僕にとって恋愛は最高に崇高な存在だ。肉欲とは乖離した、愛を煮詰めて煮詰めて数年熟成しても足りないワインのような一品。それを特定の相手と共有し、その関係性は一切の混じりけなく、純粋な愛100%により構成されている。甘々でぴゅあぴゅあなものだ。当然、その相手には「完璧」であることが求められる。玉に瑕があってはならないのだ。外見と内面どちらも僕の感性がときめくような人でないと僕の交際相手は務まらない。ちなみに、僕の感性がときめくような女性像は、恐らく大概に理想主義的で、またガチガチのフェミ活動家(あえてフェミニストとは呼ばない)からはバッシングを受けかねないようなものである。しかし、それは問題にならないのだ、ということがこれ以降を読めばご理解いただけるだろう。

2つの点で僕はリアル、つまり現実の女性に限界を感じている。一つ目には、現実には僕の理想に叶った女性は現実には存在しないか、もしくは存在していても僅かであり、普通の人生を送っていればまず遭遇することはできないということ。二つ目には、仮に僕の理想像を満たす女性が存在したところで、その女性は現実の恋愛市場においてもなお最高評価がつけられるくらいには、客観的に見ても「理想的」であるということ。つまり、僕の理想像なんてものは世の人の大抵が理想として挙げるようなものであり、従って僕にとっての理想の女性像は多くの男性からも需要のある存在であるということだ。さらに、残念なことに僕は恋愛市場において全く訴求力がない。というのも、容姿も内面も経験も最悪レベルの人間であるので、もはや市場から疎外されているといってもいいくらいだ。というかそもそも参入していない。だから、もし現実に僕の理想を叶えた女性がいて、僕が運よく遭遇できたとしても、その女性と僕が恋愛関係を樹立することはできないということだ。

ここまで読んで、「そんなん誰だって当たり前だろ」と思う人も多いだろう。その通りである。そして、ここからが僕、というよりは拗らせた童貞の発想である。大抵の人は、「じゃあ、自分のスペックと釣り合うくらいの理想像になるまで理想のレベルを落とそう!」となるのだ。つまり、妥協である。例えば、アイドルをおっかけているようなオタクだって大抵の場合は現実のパットしない相手と結婚するわけだ。男オタクも、女オタクも。オタク以外の人だって、本当は有名芸能人と付き合いてぇ~と思ってたとしても、なんだかんだ身近な相手で妥協する。

妥協した人たちはそのことを忘れて、あるいは意図的に無視して、「この人

の内面が~」とか「世界一愛してる」だとか嘯くわけだが、じゃあ全人類誰でもいいから一人選んだらその人と相互に愛し合う関係になれるとして、貴方は本当に今のパートナーを選ぶのか?と考えたとき、ほぼすべての人間は本心においてNOだろう。

おいおいなにいってんだ。そんなこといってたら恋愛も結婚も全くできないじゃねえか。社会不適合だな。というのは拗らせていない人の意見である。そのような生き方も、勿論ありだ。というか、彼らは恋愛とは生活においてするものだ、すべきものだという刷り込みの上に生活しているから、自然とそういう方向に走ってしまうのであろうが(このあたりは後述する承認欲求のお話とも絡む)。僕は正直したいとは思わないが、別にそういうやり方を採る人が存在することは承知しているし、(こちらの目につかない、不快にならない範囲で)勝手にやっててくれという感じだ。拗らせた僕のようなクソ童貞からすると、「別にフィクションなら妥協する必要なくね?」となるのだ。

フィクションの美少女たち。様々な属性があり、コンテンツがあるなかで、「この人こそ僕の理想だ!!!」というような相手は探せば見つかってしまう。それが所謂ガチ恋勢であったりするわけだ。そして、その相手を愛する。その相手との様々な行為を夢想する。少女漫画レベルからエロ漫画レベルまで、様々ないちゃらぶを想像するのだ。そして、それで満足してしまうのだ。

このような人々はしばしば世間において嫌われるが、しかし確実に良い因子であるともいえる。それは、「現実の女性に対する"束縛"がない」ということである。僕ら拗らせ童貞は現実の女なんて所詮フィクションには敵わないと思っているから、別に化粧しろとかも思わないし、服装を女性らしいものにしてなくたって別にどうでもいい。外見の一切の装飾を求めていない。だって、いくら着飾ったって所詮3次元のボディ。限界がある。勿論装飾をするのも自由だが、それをすべきだとは全く考えていない。

さらには、所謂「女性のタイプ」みたいなものは大抵似通ったもので、恋愛したがる男女はこういった相手の性別からの”タイプ”にしばしば縛られている。(同性愛者の事情をよく知らないので、また僕も僕の周囲も異性愛者であることが多いため、このブログは基本的に異性愛の場合であるということは理解しておいてほしい) しかし、僕らクソ拗らせ童貞は、そもそも3次元女性に期待していないので、別に彼女らに何ら求めることはない。こういうタイプがいい!とかは勿論あるが、満たせる存在が3次元にいないことを最初から前提にしているので、別にどうでもよいのである。

また、勿論現実の女性に対し恋愛的アプローチをすることもない。女性の中には、そういったアプローチを嫌う人も一定数いると聞くし、特に僕らのようなクソ拗らせ陰キャキモオタ童貞からされるのは不快以外の何物でもないだろう。実際、現実に希望をもってしまっている一部のクソ童貞が現実の女性に「勇気」を出してアタックして見事玉砕、相手から陰口を流されるという事例はあるが、当たり前である。そんな勇気はいらないし、ただの蛮勇だ。その点、僕らクソ拗らせは最初から一切の接触を持とうとしない。勿論、社会に所属している以上、関わらなければならない場面では一人の人間として良識的なコミュニケーションをとる努力を尽くすが、それまでだ。その相手に恋愛的観点から期待をすることも、評価を下すこともない。ただの一人間として人間らしく扱うまでだ。

以上みてきた通り、僕らクソ拗らせ童貞は女性からすれば「無益無害」な存在である。±0である。勿論、僕らは見た目からしてゴミカスなので視界に入ると不快に思う女性も多いだろうが、それはこちらからしても同じなのだ。3次元の住人の顔なんて見たところで不快感こそあれど快感など一切湧かない。そこは、お互い心の内でかみ殺すものだろう。それが良識というものだ。そういった回避不可能なものを除けば、僕らはウェイ共と違って女性に自分からアクションを起こさないし、恋愛の標的として狙うこともない。女性からすれば、いてもいなくても変わらない路傍の石のような存在だ。路傍の石をわざわざ蹴り飛ばすのは幼稚園生くらいのものだ。良識ある大人の女性の方々には、我々クソ陰キャをわざわざ蹴るなどという行為はぜひとも謹んで頂きたいものだ。我々は路傍の石でしかないので、反撃もできないし、ただひたすらにジメジメした隅の方にて、蹴られるならただひたすら蹴られるのみなのだから。

ただ、このような向き合い方は、男女平等社会においては非常に合理的である。というのも、女性にアプローチした行為がセクハラになったり、女性を恋愛対象として扱った言動がポリコレ的にアウトになったりすることがないのだから、自衛としても他人に迷惑をかけないという意味でも有益だ。自信をもってそういえる。

デメリットを上げるとすれば、承認欲求の不満である。というのも、現代はネットにより人同士がつながったために承認が非常に得づらいご時世だ。よく述べられる例だが、昔であれば「村一番」であることが承認欲求に繋がったが、現代ではいろんな界隈が見えてしまうので、肯定感など欠如して当たり前なのである。そんな現代にも残る恋愛という因習は、パートナー同士で承認しあうという非常に強力な相互承認機構である。互いに愛を振りまき(そこには毒や混じりけがあるが)、互いに認め合い(そこには他意があるが)、互いに支え合う(簡単に崩れ得るが)のだ。しかし、クソ限界童貞たる我々には、現代における数少ない承認欲求装置が与えられていないのだ。承認されず、自己肯定感の欠片もない我々は、勉強とか学問とかゲームとか、様々な”イカニモオタク”コンテンツにおいて承認欲求を満たそうとするが、そういった領域の津々浦々から参入するプロに敵わず、結局不完全燃焼な劣等感を胸に抱えることになるのだ。大抵の人が持つ、日常生活における最強の承認装置たる恋愛すら持たぬために、我々はもはや自分に対して絶望とまではいかなくとも失望し、日々の生活における望みを失い、そしてますますフィクションに依存し、傾倒していくのである。

ただ、僕はそこで現実において妥協して恋愛という承認装置を得たいとは思わない。もしそうしたところで自分程度の人間が構築できる恋愛関係如きでは大した承認効果は得られないだろう。その程度の、質の低い恋愛ごっこしかできやしないのだ。それよりは、フィクションの美少女に愛を注ぐいっぽうで、生活の中で自己実現を図っていきたい。仕事でもいいし、他のことでもいい。なんでもいいから、社会に報いる何等かの生産行為を行い、それによって利益を還元し、引換にやりがいとか、達成感といったものを得たい。それをもって僕という人格が元気でいるための餌なり糧なりとしていきたい。その方がよほど健全だ。だって、恋愛において僕が与えられるのはたった一人への承認でしかないけれど、社会に対する利益還元では、僕は複数の人に利益を与え、引換に彼らから承認してもらえるのだから、そちらの方がよほど効率的だし、人の役にたっている。恋愛というこじんまりとした茶番に割く時間や空間や体力や余裕や精神があれば、それをより社会的に有意義な営為に費やした方がよい。

そのようなことを、今日この頃考えていたのでまとめておきました。