秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

君と過ごすよ劣等感

僕が無邪気で、クリスマスとかバースデイの贈り物は何がいいかいと尋ねられたとしよう。そうしたら、僕は迷わず「自己肯定感を下さい!」と言ってしまうのであろう。

自己肯定感。かつて人は宗教に見出していたようだ。現代の自称先進国の日本の皆さまは大半が無宗教だ。そんな中、人々は自己肯定感を外部に依拠する形で構築しているようだ。それはかつて神という存在を仮定したのと何ら変わらない構図だ。それが現実の人間を崇拝することであったり、或は新興宗教であったり、はたまた金や学力といった数値的なモノであったりもする。更には恋愛や友情などの対人関係によって自己肯定感を得ることもあるようだ。

僕。僕の人格において自己肯定感の根拠を明確にすることはできない。常々、外部依存の自己肯定感や自尊心は虚構であり、また自分を肯定する根拠がないままに自己肯定をお行うことは単なる現状の正当化でありそれは甘えでしかないと主張している自分だが、勿論僕は自分自身が持ちうる能力の全てにおいて上位互換がいることを知っている。総合という観点で見ても僕より卓越した人間は山ほどいる。そのことを実感している。

自己肯定感がないと何か困ることがあろうか。いや、ない。ないのだが、それは自分という僕にとっては唯一のリアルである人格が無価値であるということになってしまう。その通りなのだろう。客観的に考えてみると(これもまた主観的な作業になってしまうのだが)、僕という存在に価値はない。数多の宇宙、そのうちのたった一つでしかないこの宇宙の中に、偶然生まれた複雑な有機体メカニズムとしての僕が死んだところで、この人格を観測する者が消失するだけだ。そう考えれば全ての人類は無価値になってしまうが、このようなある種の諦観が僕には詰まるところある。そのようなちゃぶ台返し的議論は避けるにしても、やはり僕は他の人間に対して優れたところはない。自己肯定感とは他者との優劣ではない!と主張する人間もたくさんいるが、それは僕からすると自分はゴミだけどそんなゴミな自分を無条件に愛そう!と、自分より遥かに秀でた人たちに見下されながら弱者が現実逃避して必死に叫ぶシュプレヒコールにしか思えない。僕は弱者だから、そしてそのことを自覚しているから、そうやって盲目的に自己が自己であるというだけで賛美することはできない。

周囲の自分より能力も人柄も善いと思わされる人たちと関わることは非常に楽しい。楽しいし、刺激される。そして、自分は無価値なんだなと感じる。人間は他者との連関のなかに生き、死ぬまでその枷から解放されない。その80年くらいの間、人間は他者と関わり続け、自分がいなくても世界や社会は回るということを常に意識させられる。だからこそ、誰にもとって変わられないような自分らしさを追求しようというのが良く言われることだが、現実はそんなに簡単ではない。オンリーワンになることはナンバーワンになることより遥かに困難だし、ナンバーワンになることは自明に困難である。結局僕らは量産型として消費し消費される。そんな量産型が、自身の凡庸さを全て肯定し、自分は自分だからいいんだと思い込んでしまうのはあまりに、あまりに、非人間的だ。残酷すぎる。僕は、自身の低能を自覚しながら80年生きることに耐えられない。そこまで強いメンタルを持っていない。

結局、思春期の夢は醒めた。人生という長く短い夢の中の、思春期というパートは過ぎ去ってしまったのだろう。そして、結論は出ない。僕という一個体が、量産スペックが、一人格が、どうして自分を肯定することができるのだろう?その根拠は何だろう?常に意識的、或は無意識的に、そのことにとらわれて過ごした。無我夢中に過ごした、そんな思春期であり、青春である。冬の如き重圧感に支配された、鬱屈とした環境で、それでも楽しげに過ごした。そして答えは出ていない。

ただ、人生の歩み方のとりあえずの方針は出た。それは、どれだけ自分を否定しても、どれだけ他者と比べ劣っていても、そしてそれがどれだけ辛くても、自尊心や自己肯定感は根拠なく抱いてはいけないということだ。常に自分を否定しろ。下を見ずに上澄みだけ見つめ、翼の蝋が溶けても目が焦げるか海にて溺死するまで太陽を目指し続けろ。陰鬱とした自分へのルサンチマン、その中でもひたすらに、真摯に、自分のクズさと無能さ、弱さと対峙し、絶望しても、何かを成し遂げ続ける。何かしら、自分がやるべきだと思ったことをやって現実世界に実装する。発信する。或はインプットして、身体化する。血肉と為す。それを続ける。辞めたら自殺する。鬱になって体が動かなくなるまでやる。動かなくなって、鬱病になったらさっさと死ぬ。劣等感と向き合い続け、常に劣等感に監視されているつもりで、劣等感という化物と付き合っていく。そうやって、人生をクソみたいな不快感に満ち満ちた状態で、必死に過ごしていきたい。