秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

性別についての概観、"拗らせ"の果ての観念

僕は拗らせ童貞である。そして、その上で述べたい。僕は心から男女平等的である。

僕にとって恋愛は最高に崇高な存在だ。肉欲とは乖離した、愛を煮詰めて煮詰めて数年熟成しても足りないワインのような一品。それを特定の相手と共有し、その関係性は一切の混じりけなく、純粋な愛100%により構成されている。甘々でぴゅあぴゅあなものだ。当然、その相手には「完璧」であることが求められる。玉に瑕があってはならないのだ。外見と内面どちらも僕の感性がときめくような人でないと僕の交際相手は務まらない。ちなみに、僕の感性がときめくような女性像は、恐らく大概に理想主義的で、またガチガチのフェミ活動家(あえてフェミニストとは呼ばない)からはバッシングを受けかねないようなものである。しかし、それは問題にならないのだ、ということがこれ以降を読めばご理解いただけるだろう。

2つの点で僕はリアル、つまり現実の女性に限界を感じている。一つ目には、現実には僕の理想に叶った女性は現実には存在しないか、もしくは存在していても僅かであり、普通の人生を送っていればまず遭遇することはできないということ。二つ目には、仮に僕の理想像を満たす女性が存在したところで、その女性は現実の恋愛市場においてもなお最高評価がつけられるくらいには、客観的に見ても「理想的」であるということ。つまり、僕の理想像なんてものは世の人の大抵が理想として挙げるようなものであり、従って僕にとっての理想の女性像は多くの男性からも需要のある存在であるということだ。さらに、残念なことに僕は恋愛市場において全く訴求力がない。というのも、容姿も内面も経験も最悪レベルの人間であるので、もはや市場から疎外されているといってもいいくらいだ。というかそもそも参入していない。だから、もし現実に僕の理想を叶えた女性がいて、僕が運よく遭遇できたとしても、その女性と僕が恋愛関係を樹立することはできないということだ。

ここまで読んで、「そんなん誰だって当たり前だろ」と思う人も多いだろう。その通りである。そして、ここからが僕、というよりは拗らせた童貞の発想である。大抵の人は、「じゃあ、自分のスペックと釣り合うくらいの理想像になるまで理想のレベルを落とそう!」となるのだ。つまり、妥協である。例えば、アイドルをおっかけているようなオタクだって大抵の場合は現実のパットしない相手と結婚するわけだ。男オタクも、女オタクも。オタク以外の人だって、本当は有名芸能人と付き合いてぇ~と思ってたとしても、なんだかんだ身近な相手で妥協する。

妥協した人たちはそのことを忘れて、あるいは意図的に無視して、「この人

の内面が~」とか「世界一愛してる」だとか嘯くわけだが、じゃあ全人類誰でもいいから一人選んだらその人と相互に愛し合う関係になれるとして、貴方は本当に今のパートナーを選ぶのか?と考えたとき、ほぼすべての人間は本心においてNOだろう。

おいおいなにいってんだ。そんなこといってたら恋愛も結婚も全くできないじゃねえか。社会不適合だな。というのは拗らせていない人の意見である。そのような生き方も、勿論ありだ。というか、彼らは恋愛とは生活においてするものだ、すべきものだという刷り込みの上に生活しているから、自然とそういう方向に走ってしまうのであろうが(このあたりは後述する承認欲求のお話とも絡む)。僕は正直したいとは思わないが、別にそういうやり方を採る人が存在することは承知しているし、(こちらの目につかない、不快にならない範囲で)勝手にやっててくれという感じだ。拗らせた僕のようなクソ童貞からすると、「別にフィクションなら妥協する必要なくね?」となるのだ。

フィクションの美少女たち。様々な属性があり、コンテンツがあるなかで、「この人こそ僕の理想だ!!!」というような相手は探せば見つかってしまう。それが所謂ガチ恋勢であったりするわけだ。そして、その相手を愛する。その相手との様々な行為を夢想する。少女漫画レベルからエロ漫画レベルまで、様々ないちゃらぶを想像するのだ。そして、それで満足してしまうのだ。

このような人々はしばしば世間において嫌われるが、しかし確実に良い因子であるともいえる。それは、「現実の女性に対する"束縛"がない」ということである。僕ら拗らせ童貞は現実の女なんて所詮フィクションには敵わないと思っているから、別に化粧しろとかも思わないし、服装を女性らしいものにしてなくたって別にどうでもいい。外見の一切の装飾を求めていない。だって、いくら着飾ったって所詮3次元のボディ。限界がある。勿論装飾をするのも自由だが、それをすべきだとは全く考えていない。

さらには、所謂「女性のタイプ」みたいなものは大抵似通ったもので、恋愛したがる男女はこういった相手の性別からの”タイプ”にしばしば縛られている。(同性愛者の事情をよく知らないので、また僕も僕の周囲も異性愛者であることが多いため、このブログは基本的に異性愛の場合であるということは理解しておいてほしい) しかし、僕らクソ拗らせ童貞は、そもそも3次元女性に期待していないので、別に彼女らに何ら求めることはない。こういうタイプがいい!とかは勿論あるが、満たせる存在が3次元にいないことを最初から前提にしているので、別にどうでもよいのである。

また、勿論現実の女性に対し恋愛的アプローチをすることもない。女性の中には、そういったアプローチを嫌う人も一定数いると聞くし、特に僕らのようなクソ拗らせ陰キャキモオタ童貞からされるのは不快以外の何物でもないだろう。実際、現実に希望をもってしまっている一部のクソ童貞が現実の女性に「勇気」を出してアタックして見事玉砕、相手から陰口を流されるという事例はあるが、当たり前である。そんな勇気はいらないし、ただの蛮勇だ。その点、僕らクソ拗らせは最初から一切の接触を持とうとしない。勿論、社会に所属している以上、関わらなければならない場面では一人の人間として良識的なコミュニケーションをとる努力を尽くすが、それまでだ。その相手に恋愛的観点から期待をすることも、評価を下すこともない。ただの一人間として人間らしく扱うまでだ。

以上みてきた通り、僕らクソ拗らせ童貞は女性からすれば「無益無害」な存在である。±0である。勿論、僕らは見た目からしてゴミカスなので視界に入ると不快に思う女性も多いだろうが、それはこちらからしても同じなのだ。3次元の住人の顔なんて見たところで不快感こそあれど快感など一切湧かない。そこは、お互い心の内でかみ殺すものだろう。それが良識というものだ。そういった回避不可能なものを除けば、僕らはウェイ共と違って女性に自分からアクションを起こさないし、恋愛の標的として狙うこともない。女性からすれば、いてもいなくても変わらない路傍の石のような存在だ。路傍の石をわざわざ蹴り飛ばすのは幼稚園生くらいのものだ。良識ある大人の女性の方々には、我々クソ陰キャをわざわざ蹴るなどという行為はぜひとも謹んで頂きたいものだ。我々は路傍の石でしかないので、反撃もできないし、ただひたすらにジメジメした隅の方にて、蹴られるならただひたすら蹴られるのみなのだから。

ただ、このような向き合い方は、男女平等社会においては非常に合理的である。というのも、女性にアプローチした行為がセクハラになったり、女性を恋愛対象として扱った言動がポリコレ的にアウトになったりすることがないのだから、自衛としても他人に迷惑をかけないという意味でも有益だ。自信をもってそういえる。

デメリットを上げるとすれば、承認欲求の不満である。というのも、現代はネットにより人同士がつながったために承認が非常に得づらいご時世だ。よく述べられる例だが、昔であれば「村一番」であることが承認欲求に繋がったが、現代ではいろんな界隈が見えてしまうので、肯定感など欠如して当たり前なのである。そんな現代にも残る恋愛という因習は、パートナー同士で承認しあうという非常に強力な相互承認機構である。互いに愛を振りまき(そこには毒や混じりけがあるが)、互いに認め合い(そこには他意があるが)、互いに支え合う(簡単に崩れ得るが)のだ。しかし、クソ限界童貞たる我々には、現代における数少ない承認欲求装置が与えられていないのだ。承認されず、自己肯定感の欠片もない我々は、勉強とか学問とかゲームとか、様々な”イカニモオタク”コンテンツにおいて承認欲求を満たそうとするが、そういった領域の津々浦々から参入するプロに敵わず、結局不完全燃焼な劣等感を胸に抱えることになるのだ。大抵の人が持つ、日常生活における最強の承認装置たる恋愛すら持たぬために、我々はもはや自分に対して絶望とまではいかなくとも失望し、日々の生活における望みを失い、そしてますますフィクションに依存し、傾倒していくのである。

ただ、僕はそこで現実において妥協して恋愛という承認装置を得たいとは思わない。もしそうしたところで自分程度の人間が構築できる恋愛関係如きでは大した承認効果は得られないだろう。その程度の、質の低い恋愛ごっこしかできやしないのだ。それよりは、フィクションの美少女に愛を注ぐいっぽうで、生活の中で自己実現を図っていきたい。仕事でもいいし、他のことでもいい。なんでもいいから、社会に報いる何等かの生産行為を行い、それによって利益を還元し、引換にやりがいとか、達成感といったものを得たい。それをもって僕という人格が元気でいるための餌なり糧なりとしていきたい。その方がよほど健全だ。だって、恋愛において僕が与えられるのはたった一人への承認でしかないけれど、社会に対する利益還元では、僕は複数の人に利益を与え、引換に彼らから承認してもらえるのだから、そちらの方がよほど効率的だし、人の役にたっている。恋愛というこじんまりとした茶番に割く時間や空間や体力や余裕や精神があれば、それをより社会的に有意義な営為に費やした方がよい。

そのようなことを、今日この頃考えていたのでまとめておきました。

 

この度、童貞を卒業しました。

これまで散々Twitterで限界童貞を名乗ってきました不肖私めですが、この度ついに童貞を卒業したのでその旨を報告させていただきます。相手は従姉妹の紹介で知り合った都内の女子校の人です(以下Aさんとします)。恋愛関係ではなく、あくまでセフレ未満のものだと思っていただければ概ね正しい認識になると思います。

紹介は今年の8月のことだ。高3の8月とはいえお盆は講習もなく暇を持て余していた私は、たまたま地方から東京に来ていた従姉妹から受けた連絡で新宿に赴き、そこでAさんと出会った。彼女は夏休みだというのに制服を着ていて、僕からすると英検会場に制服で来るJK並みに理解不能な、つまりは基本的に苦手で嫌いな、そんなタイプの人だった。髪は若干の茶髪で、そこから漂う馨しい柑橘の香りが今でも印象深く残っている。

従姉妹に言わせれば、普段女子と触れ合ったことのない僕への「サプライズプレゼント」だったそうで。僕に言わせればそれは有難迷惑でしかなく、コミュ障を発揮して二人の少女の他愛無い会話を黙って見ている不審者よろしくついていった。断ることもできたが、従姉妹の不慣れな土地での心細さを思うと、そして仮にそうした場合に後で親戚に愚痴られる誇大の数々を憂うと、なかなか無下にはできなかった。

二人は元からの知り合いだったらしく、従姉妹の上京にあわせて落ち合ったそうだ。僕がお供していてもいいのだろうか、という自責のような疑問を抱えつつ、二人の都内散策に連れ立っていた。Aさんは流石髪を染めているだけあって多少遊び慣れている節があり、なんだかんだ言っても田舎娘の従姉妹と、そして自明に腐れ童貞の僕の二人を上手にエスコートしてくれた。いかにも若者らしく、ショッピングなりボウリングなりに興じているその光景は、僕からすると百合漫画のワンダーランドに迷い込んだような気分で夢心地だった。

初対面のボクと彼女を取り持つ存在であるはずの従姉妹は、すっかり浮かれてしまってはしゃいでいる。高2にもなる従姉妹のその無邪気さはある意味で微笑ましかった。久しぶりの親戚の幼さを見ると、自分も懐かしさを覚えてしまう。Aさんはどこかでそうした過去の繋がりの匂いを敏感に感じ取ったのだろうか、ときたま従姉妹の袖口を引いて、奥ゆかしく自己主張していた。Aさんのいじらしさを見て、僕はこれまで抱いたことのないような、形容しがたい感情を抱いていた。これは庇護欲か、はてさて何であろうか。その違和感というほど不快でもないモヤモヤとした感情には、未だにいいラベルが思いつかない。

そうしているうちに、夜の8時くらいになったであろうか。そろそろお開きという流れになり、再び新宿駅に戻ってきた一行だった。しかし、ここで困ったことが起きる。

従姉妹「私の泊ってるホテル、池袋の方面にあるみたいだから」

といって、僕とAさんを残して一人別廻りで従姉妹は帰ってしまったのである。そこに残されたのは、唯一の繋がりを失ったほぼ初対面の男女である。まして片割れは僕なのだ。絶望しかない、と思っていた。失念していたのは、少なくとも片割れは僕だが、しかしてもう片方はAさんであったということで、そして僕は彼女のコミュ力を甘く見ていた。

電車ではおよそ1時間を一緒に過ごしたであろうか。都内の女子校に通うという彼女だが、毎日そこそこの遠距離通学をしているらしい。まあ、そんな愚にもつかないことを話しているうちに時間はあっというまに過ぎた。コミュ力、の真髄を垣間見た気がした。

彼女の最寄り駅に電車が止まると、別れ際に彼女はこういった。

「また、連絡しますね」

あどけなく笑った彼女。その笑みは、これまで何人の男を魅了してきたのだろうか。

*

夏休みが明けるまで、結局”連絡”とやらが来ることはなかった。僕は、特に期待していたわけでもないけれど、1日、あるいは意識して数日程度に間隔をあけて、メッセージアプリを何気なく確認していた。誰に見つかるというわけでもないのに、その行為に一松の罪悪感を覚えていた。そして、罪悪感を踏みにじってスマホを開き、そして連絡とやらがきていないことを確認して、なんとも思わずにまたスマホを閉じるのだ。こんな、無為を何回繰り返したか思い返さなくなった頃、一報が来た。

「お願いしたいことがあります、またこの間の場所に来てくれませんか」

恐らく、これは3人が最初に一同に会した改札口のことだろう。実際、そこに彼女はいた。今度は私服だった。黒を基調とした上下の服装。純白の靴下がローファーに映えていた。艶めかしく、それでいてあけすけに露出された腿は、白皙という言葉が似合うほどに綺麗だった。

「どうしたんですか、顔、見てくださいよ」

そういわれるまで、僕は視線が下ばかり向いていることすら自覚していなかった。それほどに、普段見ていないものー年頃の少女の私服ーというものは意識を奪ってしまうのだろう。

「そ、それで何か用事でもあるの?」

焦るように質問する。そんな余裕の無さを看破したかのようにうっすらと笑って、Aさんは言った。

「今日一日、私と遊んでください」

「そのあと、一つ相談したいことがあるんです」

その二言をいい終わるや否や、彼女は僕の手を掴んで歩き出した。

連れていかれた先は、前回と似たような場所だ。いかにも若者が行きそうな場所。やったことのないダーツをやらされて、あまりの無様さに爆笑されたときは多少の苛立ちを感じたが、概ね楽しくないことはない、そんな時間だった。そして、その後に「想定外」は発生した:

その後連れていかれたカラオケ店で、彼女は打って変わって、それまでの陽気な少女ぶりは鳴りを潜め、部屋に入りドアが閉まるや否や、僕の目をじっと見つめた。じっと。睨む、というほど鋭い目をしていたわけでもない。そこには、持て余された熱情を感じさせるオーラがあった。僕はその異様な雰囲気に飲まれ、言葉を失った。そして、息を飲み、彼女の全身をしかと目に焼き付けようとしていた。顔だけを見るのではなく、なるべく彼女の全身が視界に入るように。

「......顔、見てくださいよ」

そういって、彼女は唐突に僕の唇を奪った。時間にして、5秒ほどだろうか。僕はあっけにとられた。その取られようといったら、もはや形容することもできないくらいのそれである。「ファーストキスは母親♡」とかいってたようなウブ・ボーイであった僕が唐突に情熱と熱情の世界観に誘われたら、それはもう驚愕し、動転してしまう。僕は文字通り後ろにひっくり返った。背中から倒れこんだ先にあった硬いソファーはひんやりとしていて、ドバドバと掻いていた冷や汗の嫌な感触を伝えてくれた。その感触は、これが現実であるということをいやというほどに物語っていた。

「え、え、なに、、、」

必死に絞りだしたそのどもり言葉に、彼女はあっけらかんとして淀みなく答えた。

「〇〇さん(僕の本名)、童貞でしょ」

「それは......そうだけど」

「なんか、したくなっちゃって」

「いや、そんなこといわれても」

期待10%、疑念90%の情念が渦巻いていた。いや、だってこれは明らかにおかしい。そんなこと”現実ではありえない”。そうだったはずだ。

「......何か事情が?」

そう聞くと、彼女はまたもあっさりと述べた。曰く、元々付き合っていた彼氏に夏休み終り頃に振られた。曰く、性欲を持て余していた。曰く、とはいえ女子校にて長らくすごしていたので男子の知り合いがほとんどいなかった。そして僕に白羽の矢が立ったということのようだ。

ばかげている。

「お前の性欲処理の道具にするんじゃねえ」

しかし、一笑に付されてしまった。

「期待しすぎでしょw 別にそこまでするとは言ってないし」

顔が紅くなるのを感じた。屈辱を久々に感じた。怒りに任せて行動しても、碌なことにはならないのだが。しかし、それでもこうもコケにされたとあっては怒りが収まらなかった。

そんな内面世界を見抜かれたのだろう、彼女は笑い続けながらこういった。「そんなにヤりたいんなら別にいいですよ。後日、いっちゃいましょう」

......その提案を蹴り飛ばして笑っていられるほど、僕は強い人間ではなかった。

一週間後の土曜日の夜。連絡が来た。

「明日とか空いてます?いきましょうよ」

「避妊具とか持ってった方がいいの?」

「いや、普通ホテルについてるんで大丈夫ですよw」

......またもや、恥をさらしてしまったようだ。

三たび新宿で落ち合う。今日は、彼女が元カレと何回か行ったというホテルを案内してもらうことになった。内心の動揺と混迷を押さえつけて何気ない顔で雑談をしているうちに、そこそこ高いタワーのような建物についた。

「一応未成年だめなんで、気を付けて。......まあ〇〇さん老けてるし大丈夫だと思うけどw」

フロントに着くと、部屋の一覧のパネルがあった。空き部屋は点灯しているということらしい。数十はあるかという部屋のうち、日曜ということもあってか、半数近くは埋まっていた。

「これは、どこでもいいの?」

恐る恐る聞くと、Aさんは特には答えずそのうちの一つを指さした。

「ここにしますか」

......しかし、こう敬語を若い女子に使われていると、まるでデリヘル嬢とおっさんという感じだ。

受付でカードキーを受け取って、書かれた番号の部屋に行った。どうも、部屋に入ってから一度連絡をしないといけないらしい。内線で受付に連絡をする彼女の気軽さは、カラオケで延長を頼むときのそれとよく似ているな、などとどうてもいいことを何故か強く実感した。

電話を終えたAさんは、「じゃシャワー入ってくるんで」と言い残し、言ってしまった。うーむ、暇だ。内心はあまりにごちゃごちゃとしていて、整理がつかない。部屋に備え付けられていたパソコンをいじって待つことにした。

**

最悪だ。あまりに長いAさんのシャワーと、そしてシャワー室の扉の前まで行ってシルエットをチラチラを眺めていたら気が滅入ってしまったのと、一度射精しとけばすぐにイってしまうことはないだろうという浅慮によって、僕は普通にトイレでシコってしまったのだ。射精して数秒、とてつもない後悔が押し寄せてきた。......なにやってんだ、僕は。

そうこうしていると、ついに彼女はシャワー室からでてきた。バスロープを纏ってはいるものの、明らかに身体のラインの見え方が違う。恐らく年齢に対しては十分に豊満であろう胸や、チラと覗く女性器、というよりは陰毛に覆われた恥丘の部分は、なかなかに刺激的なモノだった。「とりあえず入ってきてくださいよ、まさか待ってる間に自分で出しちゃったりしてませんよねw」

図星である。しかし、そんなことを気取られぬように、ああわかってるさとでもいうように、鷹揚とした身振りでシャワー室へと歩いて行った。ばれていても、虚栄は続けるからこそ意味がある。

しかし、シャワーを浴びるとはいっても、実際どうしたらいいんだろうか。普段家でやるように、全身を洗えばいいのだろうか。そう思って、ボディソープを体に塗ったくって気づいた。「これローションだ!!!」

最悪すぎる。とりあえずシャワーで流してみるものの、まったくぬめぬめ感がとれない。オナホのローションとこのあたりの勝手は一緒ということか。

ぬるぬると格闘していると、コンコン、と扉が打たれた。「遅くないですかw入りますよ~」

「ちょ、ちょまっ」

抵抗虚しく、あっさりと侵入を許してしまう。そこにいるAさんは、全裸だった。バスロープで隠れていた乳房の先端のピンク色も、あるいは恥丘の全貌も、後ろに聳えている。だが、僕は裸眼視力が絶望的に悪いので正直よく見えなかった。だが、彼女が僕の体に自分の体を擦り付けてくることで、触覚は敏感にAさんの肉体のあれこれを感じ取っていた。ハリのある胸、それが背中に押し付けられることで簡単にその形を変える。おっぱいマウスパッドの柔らかさとはまた異質なものだった。あれは詐欺アイテムなので今すぐ摘発されるべきだ。そんな、ここまで来て現実逃避をするのかと今の自分から叱り飛ばしたくなるほどに、その時の僕は動転していた。あまりに新体験すぎて、言葉を失っていた。

「......ちょっとは反応してくれないとつまらないんですけど」

不服そうに言うと、Aさんはいきなり僕の陰茎を掴んできた。こ、こいつ非処女とはいえそこまで性体験に慣れてないんじゃないか?まあ、だとしてもある意味それは妥当なのだが。

ギンギンに勃った僕の陰茎は、先ほどの「ローションをボディソープ替わりに塗ってしまった事件」のせいで異様にヌルヌルに塗れまくっていた。そんな裏事情はつゆ知らずのAさんは、「興奮しすぎでしょw」とにやにやした視線を送ってくる。それがどうもイラっと来てしまった。

「これじゃ君が良く見えないんだけど」

「じゃ、はやくあがりましょうw」

......確かに、元々は僕が悪いのか。

シャワー室を出て、ベッドに互いに腰掛ける。電気はつけるなという強い要望により、部屋はうす暗い。それが、より雰囲気を迫真なるものに近づけていた。

「......で、どうしたらいいんすか」

思わず敬語で聞いてしまった。

「え、まあ構図自体はAVであるようなやつですよ」

といわれたので、とりあえず彼女に寝てもらって、体幹レーニングをするときのように彼女の体の両脇に腕を置き、彼女の陰部に自分の陰茎を近づけようとしてみた。

「ちょ、いやいや待って‼ある程度濡らさないと痛いから!」

驚いた表情で手を僕の胸に押し付け、押し剥がしてきた。

「あー、ごめんなさい」

これは、恐らく過去に経験があるのだろう......。

「はあ......」

これだから童貞は、とでも言いたげなやれやれフェイス。正直反論の余地がないので誤ることしかできない。

「じゃ、とりあえずなめてください」

「お。おう......」

彼女が豪快に開いた股の間に顔をうずめる。少し酢のような匂いがするも、巷で言われているほどの悪臭がするわけではなかった。恐る恐る、陰唇の間に舌をつける。

「ひゃっ......」

感じていたわけではないのだろう、単純に冷たかったからあげてしまった反射的な声だったのだろう、それでも、否応なく僕は興奮した。記憶を手繰り寄せて、とりあえずこれが陰核か?Gスポットってなんだっけ?と、知識を辿る。

「ん......んっ......」

ああ、この娘は優しいんだろう。別に金がもらえるわけでもないのに、こちらのレベル1の愛撫にとりあえず乗っかって役者をやってくれるんだから。

「......このくらいでいいのかな」

「大丈夫です、じゃあ今度はこっちが舐めますね」

オドロキの提案だった。

「いやいやいや、いいよ、申し訳ないし」

「ここまで来たら別にいいですよもう」

そう言い切って、こちらの陰茎に手を伸ばすA。亀頭部をチロチロと舐める、漫画でみるような、豪快に奥まで咥えるそれとは異なる慎ましいものだったが、興奮を煽るには十分だった。

10分ほど続けたであろうか。彼女の手コキもいよいよ激しくなり、射精欲が高まってきた頃合いである。

「そろそろ、、、やばそうです」

彼女は、場違いに無邪気な笑みを浮かべて、「なんでまた敬語なんすかw」といった。そんなあどけなさと、今自分たちがしている行為とのギャップがあまりにエロティックで、僕は思わず彼女を押し倒していた。

「......いいですよ」

押し倒して、許可を得た。予め買っておいたコンドームを装着する。普段オナホを使うときに使っていたので、ここは手間取らなかった。おー、という舐め腐った歓声が聞こえてきたが、反応する余裕もないので無視した。

そして、ここからが童貞の見せどころである。そう、どこに入れるのかわからないのだ。とはいえ、聞くに聞けない僕の矮小な葛藤を察してくれたのか、Aは8月のあの日のように優しくエスコートしてくれた。

「……コッチ、です」

誘われるままに挿入口に亀頭を付ける。若干の抵抗を感じるも、思い切って入れると、案外それはあっさりと入った。

「おぉ......」

ロリ系オナホほどの締め付けはないものの、人のあたたかさと、何より目の前で上気した顔で息を荒げている彼女の存在が最高のスパイスとして機能していた。隔てる0.02ミリの壁がなくて、思いっきりこの中に射精したいという本能の囁きを感じざるを得なかった。

体制は所謂正常位。「動いてもいい...?」「大丈夫です」

のろり、のろりと腰を動かしてみる。早く動かすと射精してしまいそうというのもあるが、それよりも予想以上に腰に負担がかかる。腕が痛む。受験生の体には堪えるものがある。

とりあえず十数往復くらいしただろうか。少し打ち付ける強さを強くしてみるなどして、一通りやってみたいことはやれた。ふわふわとした気持ちよさ。苛烈な刺激はないが、膣が射精を誘導すべくじわじわと蠢いているのを感じる。

「あの、対面座位ってやつをやってみたいんだけど」

「......いいですよ」

そうして、僕らは向き合った。ちょうど、彼女の鎖骨が僕の顔のあたりに来る。向き合って、彼女の陰部に挿入した状態で抱き合って、胸や鎖骨を舐めてみる。彼女が上げてくれる嬌声は、それが台本だとわかっていてもなお、興奮作用を齎してくれた。

Aの腰をバウンドさせるように腰を震わせ、ベッドを軋ませる。胸に顔をうずめてみたり、乳首を舐めてみたり、腰を強く打ち付けてみたり。

最後は、そのまま僕が寝転がって騎乗位の姿勢になった。対面座位も、それはそれで僕への腰の負担が大きかったのだ。

彼女が小刻みに腰を上下させ、時々僕が下から突き上げる。そうしているうちに、意外とあっさりと射精の瞬間を迎えて、それからまた数回くらい同じことを繰り返して、”蜜月”の時間は終わりを告げた。その後は、一通り片付けて、着替えて、部屋を出た後は自動精算機で会計を終わらせ、ホテルを出ることには入室から3時間ほどが経過していた。

「今日は......その、ありがとう」

早々と歩きだしたAさんの背中に、礼を言った。

「いいんですよ、私のストレス発散みたいなものだしw」

そう笑って言った彼女との1時間の帰り道は、先ほど性行為をしていたことがまるで嘘みたいに、夏休みに一緒に帰ったときと何も変わらないような会話に終始していた。ただ、本当に気持ち悪いとは思うが、名残惜しさと何かしらの執着の象徴だろうか、リュックの隠れポケットに入れてきた、ゴミ箱から持ち帰ってきた使用済みのゴムだけが、その事実を物語っていた。

*

家に帰り、スマホを開く。今日の礼を改めて言おうと思いメッセージを送るも、その後、一度たりとて返信が返ってくることはなかった。Aさんの学校は知っていたし、名前もわかっていたからまた会おうと思えば会えるんだろうが、どうもそういう気にもならなかった。あの日、残暑のあの日、最寄り駅から家に帰る途中で、親に見つかったら大変だという一心で持ち帰ったゴムも捨ててしまった。気怠い暑さの中で、ゴムは熱されたアスファルトの上に無造作に放置されていた。今は、もうゴミとなって燃やされていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ま、全部嘘なんですけど。(それはそう)

一生限界童貞です。はい。

 

君と過ごすよ劣等感

僕が無邪気で、クリスマスとかバースデイの贈り物は何がいいかいと尋ねられたとしよう。そうしたら、僕は迷わず「自己肯定感を下さい!」と言ってしまうのであろう。

自己肯定感。かつて人は宗教に見出していたようだ。現代の自称先進国の日本の皆さまは大半が無宗教だ。そんな中、人々は自己肯定感を外部に依拠する形で構築しているようだ。それはかつて神という存在を仮定したのと何ら変わらない構図だ。それが現実の人間を崇拝することであったり、或は新興宗教であったり、はたまた金や学力といった数値的なモノであったりもする。更には恋愛や友情などの対人関係によって自己肯定感を得ることもあるようだ。

僕。僕の人格において自己肯定感の根拠を明確にすることはできない。常々、外部依存の自己肯定感や自尊心は虚構であり、また自分を肯定する根拠がないままに自己肯定をお行うことは単なる現状の正当化でありそれは甘えでしかないと主張している自分だが、勿論僕は自分自身が持ちうる能力の全てにおいて上位互換がいることを知っている。総合という観点で見ても僕より卓越した人間は山ほどいる。そのことを実感している。

自己肯定感がないと何か困ることがあろうか。いや、ない。ないのだが、それは自分という僕にとっては唯一のリアルである人格が無価値であるということになってしまう。その通りなのだろう。客観的に考えてみると(これもまた主観的な作業になってしまうのだが)、僕という存在に価値はない。数多の宇宙、そのうちのたった一つでしかないこの宇宙の中に、偶然生まれた複雑な有機体メカニズムとしての僕が死んだところで、この人格を観測する者が消失するだけだ。そう考えれば全ての人類は無価値になってしまうが、このようなある種の諦観が僕には詰まるところある。そのようなちゃぶ台返し的議論は避けるにしても、やはり僕は他の人間に対して優れたところはない。自己肯定感とは他者との優劣ではない!と主張する人間もたくさんいるが、それは僕からすると自分はゴミだけどそんなゴミな自分を無条件に愛そう!と、自分より遥かに秀でた人たちに見下されながら弱者が現実逃避して必死に叫ぶシュプレヒコールにしか思えない。僕は弱者だから、そしてそのことを自覚しているから、そうやって盲目的に自己が自己であるというだけで賛美することはできない。

周囲の自分より能力も人柄も善いと思わされる人たちと関わることは非常に楽しい。楽しいし、刺激される。そして、自分は無価値なんだなと感じる。人間は他者との連関のなかに生き、死ぬまでその枷から解放されない。その80年くらいの間、人間は他者と関わり続け、自分がいなくても世界や社会は回るということを常に意識させられる。だからこそ、誰にもとって変わられないような自分らしさを追求しようというのが良く言われることだが、現実はそんなに簡単ではない。オンリーワンになることはナンバーワンになることより遥かに困難だし、ナンバーワンになることは自明に困難である。結局僕らは量産型として消費し消費される。そんな量産型が、自身の凡庸さを全て肯定し、自分は自分だからいいんだと思い込んでしまうのはあまりに、あまりに、非人間的だ。残酷すぎる。僕は、自身の低能を自覚しながら80年生きることに耐えられない。そこまで強いメンタルを持っていない。

結局、思春期の夢は醒めた。人生という長く短い夢の中の、思春期というパートは過ぎ去ってしまったのだろう。そして、結論は出ない。僕という一個体が、量産スペックが、一人格が、どうして自分を肯定することができるのだろう?その根拠は何だろう?常に意識的、或は無意識的に、そのことにとらわれて過ごした。無我夢中に過ごした、そんな思春期であり、青春である。冬の如き重圧感に支配された、鬱屈とした環境で、それでも楽しげに過ごした。そして答えは出ていない。

ただ、人生の歩み方のとりあえずの方針は出た。それは、どれだけ自分を否定しても、どれだけ他者と比べ劣っていても、そしてそれがどれだけ辛くても、自尊心や自己肯定感は根拠なく抱いてはいけないということだ。常に自分を否定しろ。下を見ずに上澄みだけ見つめ、翼の蝋が溶けても目が焦げるか海にて溺死するまで太陽を目指し続けろ。陰鬱とした自分へのルサンチマン、その中でもひたすらに、真摯に、自分のクズさと無能さ、弱さと対峙し、絶望しても、何かを成し遂げ続ける。何かしら、自分がやるべきだと思ったことをやって現実世界に実装する。発信する。或はインプットして、身体化する。血肉と為す。それを続ける。辞めたら自殺する。鬱になって体が動かなくなるまでやる。動かなくなって、鬱病になったらさっさと死ぬ。劣等感と向き合い続け、常に劣等感に監視されているつもりで、劣等感という化物と付き合っていく。そうやって、人生をクソみたいな不快感に満ち満ちた状態で、必死に過ごしていきたい。

現代日本のFラン像

0.Fランの定義

Fランとは、元々「ボーダーフリー」のF、つまり入学定員に対して受験者数がより少なく、出願すれば誰でも入れてしまうような大学を指して使われていた言葉だ。そして、そこから派生してそうした大学の学生を指す蔑称として、さらには広く一般に「程度の低い人」を指す言葉として使われている。例文を紹介しておこう。

ex1. いや、今回の試験はダメだったよ。僕もFランだからね。

ex2. 君のお姉さん、プール学院大学に進学したんだって? 有名なFラン大学じゃないか!

ex.3 渋谷でハロウィンの日にバカ騒ぎしてゴミを散らかすようなFランは、エイズにでもかかって死んでほしい。

ex.4 彼の最近のツイートはFランすぎる。

ex.5 あのFランマンコ、ほんと見るに堪えないわ。これだからFランは...。

また、対概念としてSランというものがある。こちらの普及はFランほどではないものの、どちらも普遍的に用いられる人物評価の尺度である。

ex1.彼、理3A判定なんだろ?Sランじゃないか。

ex.2 お前ほんとSランだよな。ーいやいや、君こそ。僕はFランチンコだから。

 

1.Fランとはどういう存在か~Fランを追及する~

筆者はFランの構成要件として「無知の無知、あるいは迎合」「恋愛至上主義」「遊び好き」があると考えている。

1-1 無知の無知、あるいは迎合

ソクラテス的な話になる―――といったとき、その意図するところを瞬時に察することができる人間は、Fランではない。そしてvice versa、とでもいったところか。このように、一定の知識を前提として美辞麗句や故事成語などを駆使して文章を書くという「駢儷文」的な文章もそれはそれで見苦しいところがあるが、しかしそれを見苦しいと思えるのも「元ネタ」がわかってこそである。

そして、Fランの特徴として「無知」を恥じないということがある。「知らなくても当たり前」「知ってる方がキモイ」...等の発言がFランのそれとしては代表的だ。無知であることを自覚せず、そのことを突き付けられると反抗し、己の無知に迎合するのだ。さらには、時に「知」そのものを馬鹿にすることがある。彼らは、自身の立脚する文明の礎が人類の過去そのものであるということに対して無自覚であり、当たり前のものとして享受するだけでそこに対して一切のリスペクトをもたない。論外だ。

こと学校の勉学においては露骨に彼らの反知性は発揮される。そもそもまともに勉強すればまず入ることにはならないだろう大学や高校にも学生、生徒がそれなりにいる時点で推して知るべしといったところである。結局、Fランは自己研鑽もせず、だからといって陰に努力する者を尊重することもなく、狭い世界観の中で生きていくのだろう。人間死ねば何も考えることなく悠久の時を過ごせるのだから、せめて80年くらいは頑張って頭を動かしてみてはいかがか。

 

1-2 恋愛至上主義

価値基準が恋愛という要素に偏りすぎている、ということである。例えば、現代日本では常識ある人々にとって「未成年同士の淫行」はタブーであるし、ある程度保守的な人なら婚前交渉自体が禁忌である。それにも関わらず、性交渉を中高生の間に行うことを当たり前と捉えているような「Fラン」ばかりが多く世にのさばる。また、彼らにとって恋愛とは彼氏/彼女を持っているという事実が重要なのであり、それは中年の婦人が宝石を誇示するのと同様の卑しい見栄にまみれた愚行である。その点では、表題の「恋愛至上主義」は不適切かもしれない。正しくは「恋愛ごっこ至上主義」である。おままごと的な稚拙さがそこにはある。結局、純文学にでも出てくるような熱烈なる愛も、執着も、或は純粋な恋慕も、実際には行われていないのだ。見栄と性欲ばかり満たしているのだからお笑いものだ。低俗なドラマなどのフィクションで語られるようなものをただ猿真似しているだけのFランが、常識的感覚を持ち全うに勉学に励んでいる善良な青少年を馬鹿にする資格はない。程度の低い共学の中高では「恋愛ごっこ」への参加の有無がそのまま「スクールカースト」なる序列の決定的なファクターなるらしい。そして趣味嗜好により人にレッテルを張り見下したり、勉学を好む少年少女を蔑んだりするというのだから、これは黒人やアジア人が直面しているのと同じ「根拠のない差別」である。

そして、セックスの回数や彼氏/彼女のいた期間といった「恋愛歴」を異様に気にする人種もいる。そういうFランはある意味で、恋愛による序列化の被害者なのかもしれない。いずれにしても、そのような序列しか築けない時点でサルの群れと同程度の文明しか持っていないことが分かる。

ニュースで犯罪者がアニメオタクであるとかそういった情報を披歴するのは、まさしくFラン的指向だ。いまだにテレビでニュースをウダウダと見ているのはよほどのFランばかりであろうからそれでテレビ局的には問題ないのかもしれないが、もしかすると今のテレビ局の人間がそもそもFランばかりの地獄絵図なのかもしれない。困った話だ。

1-3 遊び好き

これも大きな特徴である。例えば、渋谷新宿池袋といった副都心と呼ばれる街には山ほどFランがいる。知的水準が低いので大抵のFランは金がなく、故にそうした低俗な街に彼らは屯している。いわゆる「遊ぶ場所」に行ってみると、見た目からして無駄に着飾り、理由なく髪を染めて自身の体を傷つけるという理解不能な連中がバカ騒ぎしていることだろう。もしかするとタバコや酒に耽っているかもしれない。

また、学生のFランは遊ぶためにバイトをするということがあるらしい。笑止!苦学生が学費工面のためにバイトをする、これはなんとも健気でいいだろう。だが、そういうわけでもないのに、なぜ10代という頭と体が一番無理の利く時期に高々時給1000円弱を稼ぐため時間を無駄にできるのだろうか。そして、その金で塾に行くでもなく、本を買うでもなく、遊びに使うのだからますます意味がわからない。このような高校時代を過ごしている人間が勉強で落ちこぼれたり、そのくせ大学に行こうとするというのが全く持って許せないと筆者は個人的には思う。

Fランは遊び好きであることにある種の誇りを持っているようで、その誇示のため髪を染めたり、「服」という他者に見えやすい部分にやたら気を回したりすることでアピールに努めている。しかしこれも見苦しい。ピアスなどもはや自傷以外の何物でもない。或は、煙草を吸うのが「かっこいい」という知能のあまりに低い動機から、一生付きまとう薬物に手を出すことになるFランも多いようだ。無駄に着飾り、無駄に有害物質を頬張り、それで金がない金がないと言っているのだとしたら愚かにも程がある。もしこういう連中に生活保護が出ているのだとしたら、即刻支給を打ち切って寒空の下で野垂れ死んでほしいと思う。

 

2.我々はどうあるべきか~Sラン像を追究する~

以上みてきた「現代日本のFラン像」は、言うなれば今の若者が避けるべき将来の姿である。筆者もそのように心がけているつもりだ。すなわち、Sランでありたいと切に願い、自分なりに無知を自覚し、自助努力し、浪費を禁じ、遊びに現を抜かすことのないように毎日を過ごしている。以下、「どうあるべきか」という観点から、FランへのアンチテーゼとしてのSランについて語っていきたい。

・無知を恥じ謙虚であること

結局、人間は無知だ。程度の差はあれど、Fランに知っていることをSランが知らないということもあるかもしれないし、少なくともSランにだって知らないことなどいくらでも存在する。だからこそ、その己の無知を自覚し、深く恥じなければならない。自分より優れた知性を見つけ、その人に追随し、崇め、得られるものを得ないといけない。

・自分のやりたいようにやること

逆説的に思えるかもしれないが、Fランの肉欲や浪費の行動とは常に他者を意識している。「恋愛をしている自分を誇示したい」「御洒落な自分を見せつけたい」という、他者を前提とした行動なのだ。そうではなく、「自分は何をしたいのか」という観点が重要だ。おしゃれの例でいうのなら、Fランが流行のファッションばかり追いかけているのに対して、御洒落好きなSランは自分で服を調べ、「何が流行っているか」ではなく「何を自分が着たいか」ということのみ意識しているはずだ。

・知識を重んじること

「物事を知らないよりは知っている方がいい」という原則を叩きこもう。どのような知識であれ、それを知っているというだけでその人の世界観は変容する。知らないということはそれだけで貧しいことなのだ。前述のように、人間80年程度しか時間を与えられていない。常に知識に貪欲であれ、というのは人間の能力的にも厳しい。だからこそ、知識を得る機会があれば大切にするべきだし、間違っても知識のある人間を馬鹿にして遠ざけてはならない。そういう人間は必ず自分を利してくれる。

 

最後に、子供とは「F/Sの中間態」である。すでに筆者同様17歳にもなってしまえば、ある程度どちらに「配属」されるかということは伺い知れてしまう。だから、実は小中学時代の過ごし方というのがその人の人間性を決めるのだろう。類型論的に言えば、S,Fに分かれることになる(その意味で、このページはあまりに俗的な類型論のお話とすることもできる)。

ただし、今からでも遅くはない。10代も終われば、いよいよもって手遅れになってしまう。筆者も10代最後に滑り込む形で自身の研鑽に目下励んでいる。読者諸氏と共に頑張りたいものだ。

 

恋愛観的備忘録

Twitter、あるいは日々の生活でちょくちょく触れていることをまとめてみる。統合。

そもそも自分は異性愛者なのか。正直なところ恋愛体験を人生で真にしたことが一度もない(2次元へのこの想いが該当するかは議論の余地がある)というのが僕の主観的自己批評であり、その点そもそも恋愛観の醸成が全くなされていないのではないか、つまりこのタイトルとは対照的に僕には論じる恋愛観そのものがそもそも存在しないのではないかという安易なニヒリズムを提唱することもできる。ただし、だからこそ成り立つ問だ。僕はロリータコンプレックスなのか。シスターコンプレックスなのか。あるいはペドフィリアレズビアン、ゲイ、バイ、その他もろもろより取り見取り。とはいえ択一式の問題である。男子校の監獄、あるいは楽園に閉じ込められた僕は実は原罪を背負っておらずそのため恋愛などという下賤の娯楽には興じないのだ、という無性愛なのかもしれない。

自分の意見として「性欲と恋愛は別」ということがある。この2つを同一視するなら、男子は皆AV女優に恋することになる。では、包含関係ではないのか。つまり、恋愛感情というのは性欲の一つの在り方なのではないかということだ。その仮定の下で議論してみよう。そのとき、恋愛感情ではない性欲というものがあることになるが、まずこれを考えてみたい。この性欲を「単純性欲」と名付ける。単純性欲は、例えば前述のように男がav女優やエロ漫画でオナニーをする原動力のようなものである。例えば水槽に水をためるがごとく、一定の量が溜まると流れ出てしまう。年を取れば供給量が下がるというわけだ。その原理は極めて単純に思える。最近の僕のように、ある種機械的に射精しているという人はこの話に大いに共感してくれるのではないか。

そして、それに対して恋愛感情は複合的だ。僕は実体験を持たないので口伝やフィクションに頼るしかないのだが、それらによると文章で書くのも顔を赤らめてしまうような感情の鬱積を心中に抱えてしまうようだ。第三者からすれば冷ややかに見られてしまうような、その実当人からすると羞恥のような感情やもがきたくなるような衝動を覚えてしまうのだろう。高齢者での恋愛が昨今の高齢化で注目されているが、それは恋愛感情が先述のような単純性欲とは違う、つまりポンプと水槽の関係ではないということなのだ。では、単純性欲における変数が年齢や体調、男性ホルモン/女性ホルモンという複雑ながら物質的なものだとすれば恋愛感情におけるそれは何なのか。それこそが恋愛対象である、ということが真っ先に思い浮かぶ。しかし、ここで「にわとりと卵」のような問題、つまり恋愛対象が最初に決まるときどのように恋愛感情は作用するのかという問題が生じる。一目ぼれ、というのが昔から恋愛の冒頭に使われる「キッカケ」だが、それでは恋愛対象と恋愛感情の関係は「偶発的邂逅」に端を発するのか?(邂逅にはもともと偶発の意が含まれているが、強調のため)  また、恋愛対象というものは移ろう。そうでなければ、男も女も互いに惚れあった恋愛に別れなどないし、実らない恋愛の行く末はメンヘラ的バッドエンドなのだ。つまり、恋愛対象の始まりと終わり、そのときの恋愛感情というものは未知に満ち満ちているといえよう。

恋愛対象の問題、つまり人は何を愛するのか、これは個人により違う。そして感情機構も人により多種多様である。故に一般解の存在しない思考だが、僕自身について考えてみよう。2次元という世界の少女たちに対して純潔信仰を抱いていると自負して止まない童貞だが、3次元の少女たちに単純性欲なら抱くのだ。だから「セフレ」は欲しいと常々思うのだ。ただ、渋谷で暴れる女を見ていて、女同士で悪口を肴に井戸端会議しているのを盗み聞いていて、恋愛対象にこういう女は嫌だなあと。そして他人の精液を注がれた肉体に自分の愛は注げない。だからこそ「恋愛感情」を始める時にはせめてその対象は処女で優しい心も体も女の子な少女がいいなあと思っている。ということは自分は一応異性愛者を自称している身も心も男のキモオタクなのかもしれない。